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哲学探究 その3 [メモ]


 メモ。

 このような「能力的なものの前提」というのは、一般的にもおかしなことがわかる。一般に能力は、具体的に発揮されなければ、そもそも能力として「存在」できない。「あの人には能力がある」といういい方ができるのは、その能力を認めることのできる具体的事実が過去にあったからだ。その過去の事実を根拠にして、現在でもその過去の事実と同様のことが、具体的に発揮されるはずだと推測しているだけだ。現時点で「その人」に、過去と同じことができるかどうかは、実際にやってみなければわからない。何かの事情で、その「能力」が衰えている可能性もあれば、本来そのような「能力」はもちあわせていなかった場合もある。その過去の時点で、突発的にできただけだったのかもしれない。このように考えれば、われわれにわかるのは、具体的事実と、知覚できる現実だけだ。極端ないい方をすれば「能力」というのは、すべて根拠のない推測にすぎない。たしかに「能力」という言葉を使いたくなる状況はあるだろう。しかし、それは、あくまでもその場で確認しているわけではないということを自覚している必要があるだろう。

(以上…中村昇『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』入門』P148-P149)






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哲学探究 その2 [メモ]


 メモ。

 つまり、われわれにわかるのは、われわれが音声を使って話しているという事実だけだ。それ以上はすべて推測にすぎない。われわれ人間の言語を使った会話は、ある種の能力があるからできるのだとか、理性なるものを人間だけがもっているので話すことができたのだ、といったことは、すべて推測しているにすぎない。




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哲学探究 その1 [メモ]


 メモ。

 知覚でき、複数の人間によって確認できる場面から出発する。われわれの精神や「内側」の体験についても、あくまでも知覚できる「公共」の場から出発してそちらへ向かう。言語ゲームの現場としての<ここ>から、精神や私的な体験の方へ向かう。しかしたとえば、内的な経験は存在しないなどと極端なことを考えているわけではない。そのような極端な考えは、あきらかに実証できない形而上学的な前提といえるからだ。だが逆に、内的な経験があるからこそ、さまざまな現実の事象が生じるという方向もとらない。それも同じように形而上学的な前提だから。あくまで、多くの人たちによってたしかめることのできる「場」にとどまり、必要とあれば、その場から出発して「内側」へ向かう。




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ヴィトゲンシュタイン解釈の多様性と整理 [メモ]


 メモ。

 大谷弘氏はこの論文(梗概)で実に上手に整理している。






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老後の資金 [メモ]


 メモ。

 一般的な話だが、老後、夫婦2人で公的年金以外にいくら必要なのか、という計算が為されている。

 それは退職金を含めて3,000万円ということになっている。

 もちろん一つの目安に過ぎないんだが、60歳を超えてから「3,000万円かよ」とビビったりしないように、準備をしておこう。


 参考値(平成24、25年の統計値)。

 60歳男性、平均余命23年。

 58歳女性、平均余命30年。

 夫婦2人の世帯生活費約26.9万円(単身なら約15.5万円)/月。

 公的年金夫婦2人で約21.6万円(単身なら約12.7万円)/月・・・65歳から支給。

 ・・・と考えると支出計が約8,700万円、収入計が約5,700万円で、3,000万円足りないという計算になる。






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梅の花の歌三十二首の序 [メモ]


 メモ。

<書き下しの例>
 天平二年正月の十三日、帥の老の宅に萃ひて、宴会を申ぶ。時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。加以(しかのみにあらず)曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて盖を傾け、夕岫に霧を結び、鳥はうすものに封りて林に迷ふ。庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。是に天を盖にし地を坐にして、膝を促して觴を飛ばし、言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのベむ。請ひて落梅の篇を紀さむと。古今それ何ぞ異ならむ。園梅を賦し、聊か短詠を成むベし。


<読み方の例>
天平二年正月十三日に、師(そち)の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まりて、宴会を申(ひら)く。時に、初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す。加之(しかのみにあらず)、曙(あけぼの)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きにがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥はうすものに封(こ)めらえて林に迷(まと)ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故雁(こがん)帰る。ここに天を蓋(きにがさ)とし、地を座(しきゐ)とし、膝を促(ちかづ)け觴(かづき)を飛ばす。言(こと)を一室の裏(うら)に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開く。淡然(たんぜん)と自(みづか)ら放(ひしきまま)にし、快然と自(みづか)ら足る。若し翰苑(かんゑん)にあらずは、何を以(も)ちてか情(こころ)を述(の)べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今(いま)とそれ何そ異(こと)ならむ。宜(よろ)しく園の梅を賦(ふ)して聊(いささ)かに短詠を成すべし。


<意味>
 天平二年正月十三日に、大宰師の大伴旅人の邸宅に集まりて、宴会を開く。時に、初春の好き月にして、空気はよく風は爽やかに、梅は鏡の前の美女が装う白粉のように開き、蘭は身を飾った香のように薫っている。のみにあらず、明け方の嶺には雲が移り動き、松は薄絹のような雲を掛けてきぬがさを傾け、山のくぼみには霧がわだかまり、鳥は薄霧に封じ込められて林に迷っている。庭には蝶が舞ひ、空には年を越した雁が帰ろうと飛んでいる。ここに天をきぬがさとし、地を座として、膝を近づけ酒を交わす。人々は言葉を一室の裏に忘れ、胸襟を煙霞の外に開きあっている。淡然と自らの心のままに振る舞い、快くそれぞれがら満ち足りている。これを文筆にするのでなければ、どのようにして心を表現しよう。中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。

※書き手は「山上憶良(やまのうえのおくら)」という説が有力らしい。
※天平二年は西暦730年。
※当時、梅は外来種で珍しかった。 





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例のあれ [メモ]


 メモ。

 時に初春の令月、気淑く風和ぐ。梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす。


 これが読めるでしょうか。

 ときにしょしゅんのれいげつ、きよくかぜやわらぐ。うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのこうをかおらす。

 ・・・適当ですが、こんな感じだと思います。





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精神的言説 [メモ]


 メモ。

 (・・・)せいぜいのところ17世紀の哲学者の仕事は、言語という労役から離れて、自分の観念に専心することだ。(中略)哲学することから公共的言説をそぎ落とした後で、観念の連鎖、精神的言説へと専念すること。この言説が、哲学にとって関りをもった言語そのものだ。今日の哲学者は「精神的言説」といったものが存在することを否定するかもしれないし、たしかに彼はそれが言説、すなわち言語の一部分ということを否定するだろう。しかしながら、17世紀の世界観にとってこの上なく中心的な存在だったこの精神的言説が、今日公共的言説が果たしている役割と同じ役割を当時果たしたという可能性は残っている。

(『言語はなぜ哲学の問題になるのか』邦訳P65-66)





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マクダウェルとカント [メモ]


 メモ。

 マクダウェル『心と世界』より。

(・・・)もともとのカントの思想は、経験的知識が受容性と自発性の協同から生じる、という考えだ。(・・・)私たちはカントが「直観」と呼ぶものを--経験からの取入れを--概念‐外的な所与のありのままの所有として理解すべきではなく、すでに概念的な内容をもっている、ある種の出来事ないし状態として理解すべきだ。経験において、ひとは、ものがかくかくしかじかだということを、取り入れる(例えば見る)のだ。




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シーソーの二つの運動 [メモ]


 メモ。

 マクダウェル『心と世界』より。

(・・・)デイヴィドソンの考えによれば、経験は感性に対する概念‐外的な衝撃以外の何ものでもありえない。したがって彼は、経験が理由の空間の外になければならない、と結論する。デイヴィドソンに従えば、経験は主観の信念や判断と因果的に関連しているが、信念や判断を正当化したり保証したりするような関係にはなっていない。デイヴィドソンは、「ある信念をもつ理由と見なせるものは、他の信念以外にはない(引用者註:「斉合主義」の説明)」と言うが、それで言いたかったのはとくに、経験がある信念を持つ理由とはみなせていない、ということだ。もちろん私は、こうした考え方の出発点には同意する。しかし、結論にはまったく満足していない。デイヴィドソンは、所与の神話から後退して、経験が正当化する役割をもつことを否定するが、斉合主義の結論は、摩擦のない自発性という考えのひとつののバージョンだ。(・・・)これはまさしく、私が語ってきた振動(引用者註:シーソーの動き)における、もう一つの運動だ。




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未回収の他性 [メモ]


 メモ。

 マクダウェル『統覚的自我と経験的自己』(同P30)より。


 目下の論点は未回収の他性がここでは生命の形をとっていることだ。





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生命と自己意識 [メモ]


 メモ。

 マクダウェル『統覚的自我と経験的自己』(同P29)より。

(・・・)この生命は「自己意識と生命の対立」の二場面目の極にあたるが、それら二つのものへと「この〈概念〉[生命]は分裂する」。この段階では、生命は対自的ではない。というのも、ここで生命は、自己意識と生命の対立のうち最初の極としての意識--これはいまや自己意識だ--にとってのものだからだ。

 この段階で見られるこうした曖昧な説明から私が取り出したいのは、その構造だけだ。差異を解消し、生きた個体というかたちで現実のものとなる類としての生命は、自己意識の二重の対象をもつ第一の契機がいま現われている姿だ。そして、生命としての第一の契機の場合にも自己意識は意識であり続け、「感覚的世界の広がり全体が自己意識のために維持されている」。この段階において、この対象、あるいは二重の対象のこの契機は対自的ではない。つまり主体ではない。それは、主体にとっての、すなわち、意識というかぎりの自己意識にとっての対象としてのみ現われている。




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統覚の重要性のみならず [メモ]


 メモ。

 マクダウェル『統覚的自我と経験的自己』(同P39)より。

(カントやフィヒテのように)ただ統覚の重要性から始めるのではなく、たんなる意識の経験を通じてその重要性に達する必要がある。






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主観と客観のバランス [メモ]


 メモ。

 マクダウェル『統覚的自我と経験的自己』(同P26)より。

(・・・)未回収の主観性がカントの議論構築の根元に巣くっているがゆえに、カントの試みは主観的観念論以上のものにならない。これは、不当だと言われることも多いヘーゲルのカント批判だ。しかしいまや、それは正当な批判だと考えることができる。知性の自由の及ぶ範囲を拡張する眼目は、主観的なものと客観的なものとの真の釣り合いを達成することだ。そこでは、どちらが先ということもない。真の釣り合いが達成されるなら、真に客観的なものに取り組むものとして主観性を考えることができるはずだ。客観性という考えそのものがこうした構造の一部としか理解できないと考えることは、独立の実在を放棄して主観性の投影しか残さないなどということではまったくない。




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カントの未回収 [メモ]


 メモ。

 マクダウェル『統覚的自我と経験的自己』(『思想』2019年1月号P25)より。

(・・・)そして、カントが示そうとしている同等性の二つの極のうち、客観的とされる側にこの未回収の主観性があることに対応して、未回収の客観性、すなわち、おそらくは非空間時間的な物自体が、この同等性の外部にすっかり残され、それこそが真の実在でなければならないように見えることになる。




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