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全体主義 [全体主義]


 全体主義は、その文字のイメージとは違いすべてを包括する思想ではない。なにかを排除することによって初めて成立する、閉じた空間の思想形式だ。

 たとえば、全体主義として考えられるのは、よくイメージされがちなナチス政権でもいいが、現時点で典型的な「全体主義」は「世界の平和」だ。それを文字化すると「すべての個人は平和という思想に従属するべき」となる。

 したがって「世界の平和」とは(あるいは「ある国の平和」でも同じことだが)、部分的な戦争状態によって、それに依存した形で成立する。ただし、それを例外的な外部として持つのか、内包する内戦として持つのかは、その地域や時代の特性による。






全体主義その2 [全体主義]


 全体主義は、その文字のイメージとは違いすべてを包括する思想ではない。なにかを排除することによって初めて成立する、閉じた空間の思想形式だ。

 たとえば、全体主義として考えられるのは、よくイメージされがちなナチス政権でもいいが、現時点で典型的なのが「民主主義」だ。それを文字化すると「すべての個人は民主主義という思想に従属するべき」となる。

 したがって「世界の民主主義」とは(あるいは「ある国の民主主義」でも同じことだが)、部分的な権威主義によって、それに依存した形で成立する。ただし、それを例外的な外部として持つのか、内包する強い権威主義的な権力機関として持つのかは、その地域や時代の特性による。





「大衆」運動の特徴 [全体主義]


 とりあえず、引用しよう。

「おれたちは文学者の反核運動をはじめ、今度の盛り上がった運動を発起しているものが旧左翼、旧式の進歩派、高度管理社会の現象と現状にたいする良識的で古めかしい清潔主義的な反動倫理、それらの反撥の連合体ということに危惧の念をもたざるをえない。これは大衆行動には主導者の意志や思惑を超えた行き過ぎや、逸脱がありうるなどという次元の問題ではない。主導者自体が、左翼性、進歩性のシンボルの内部にもっている保守反動を発現しているのだ。さらに一歩を踏み込んで、すこし極論すると、身障、被爆、被差別を至上物に押し上げたマゾヒックな、病的な熱気をもった倫理で、世界の全体を塗り籠めようとする盲目の志向性や、途方もない異様な雰囲気を感じる。」

 吉本隆明「情況への発言」(『試行』1982年9月)より。

 これは30年以上前に発表された、左翼的思想家の言葉だ。そして、オレが思うに、今でもまったく同じ、異様な雰囲気を感じる。まるで「平和運動の全体主義」とでも言えるような。いや、右も左も関係なく。もしかすると、もともと「大衆運動」とは、そういう性質のものかもしれない、とすら思う。

 この号の「情況への発言」は全編が興味深いので、手にする機会があれば熟読していただきたい。書籍としてもまとめられているようだし。





テレビ型社会 [全体主義]


 オレが念頭に置いているのは倒錯者のことだ。

 というわけで以下は倒錯の話。

 テレビに出演するということは自ら進んで、覗きの対象となるということだ。

 もっとその立場を明確にするのは、「自ら出演しているテレビを自分で見る」という行為だ。

 オレたちが、全体主義的な心理に陥らないためには、そのような倒錯的立場に立つ、という方法がある。

 さらにもっとその立場を明確にするのは、「自分が殺される場面を放映するテレビを自分で見る」という行為だ。




ネット型社会 [全体主義]


 現代はテレビよりもSNSの方が浸透している。

 自ら進んで自分の写真をアップする。

 これは個人情報保護の観点から如何なのものか、という意見もあるが、その倒錯的な立場を明確にするのは、「自撮りの写真を自分で見る」という行為だ。

 ナルシシズム的な全体主義とは違い、他者を経由しない。

 単にネットに載せるだけなら、それは欲望の世界で、倒錯までは行かない。

 さらにもっとその立場を明確にするのは、「死んだ自分の写真をアップし、それを自分で眺める」という行為だ。

 うーむ、恐ろしい。 





倒錯の意味 [全体主義]


 多分、社会が狂気に陥らないようにするには、倒錯しかないということなんだろう。

 自らを積極的に享楽の対象=道具とすることによって、他者を通して自ら見るようなファシズム的道具化とは違う、という主張だ。

 もちろんその前提には、主体化の失敗があるわけで、それが現代の心的病理の大元だ。





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