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ブランダムの戦略その3 [メモ]


 メモ。ヘーゲル的なもの。


・自然と文化の乖離。

 ⇒文化→精神科学→概念使用(者)

 
・概念的規範に対するプラグマティズム

 ⇒責任、社会的地位→社会的実践





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論理実証主義とプラグマティズムその1 [メモ]


 メモ。論理実証主義とプラグマティズム。クワインの議論。

・共通性

 信念や認識の経験的優位性を重視。

 アプリオリなもの、原理的なものを出来る限り排除するという姿勢。

・相違性

(1)真理を「有用性」と見るタイプの(ジェイムズ的)プラグマティズムと、論理実証主義は、「事実」と「価値」の関係において違っている。プラグマティズムは「価値」、論理実証主義は「事実性」を重視する。

(2)ジェイムズ的プラグマティズムによると、信念の有効性をは発揮するのは、無数の経験からなる「経験の宇宙」がその全体において生きていること。論理実証主義では、認識における全体論を重視しない。その真偽は経験ごとに別々。





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論理実証主義とプラグマティズムその2 [メモ]

 
 メモ。クワインの議論。

 経験主義の独断。

(1)分析的命題と総合的命題は明確に区別できる。

(2)経験的命題はその一つ一つについて、感覚的経験に結びついた(実証的な)言明に帰着されることができる。


(2)への反論

 デュエム。

 経験的命題→真なる言明の候補となった場合。

 ⇒テストされる仮説はそれ自体で単独に経験による実証を受けるのではなく、さまざまな仮説的信念のネットワークや言明のシステム、あるいは体系的理論の全体とともに検証される。


(1)への反論

 論理実証主義では経験的内容のある命題(総合的命題)と、経験的内容のない命題(分析的命題)の二つがある、されている。

 経験的内容のある命題では、上に述べたように経験情報に応じて総合的に真偽を総合的に判断する。

 分析的命題では、A=Aという同語反復的な真理証明ができる、とされている。

 しかし、この一見同語反復的な「分析的命題」を検証することは簡単ではないはずだ。

 例えば、「独身男性は未婚だ」。厳密に言うと「未婚」という言葉は経験的なもので、経験的な性質についての言明は、単独の言明として実証できるのではない。これもまた「総合的」に判断しなければならない。

 とするならば、分析的命題と総合的命題の区別自体が、曖昧で不確定な区分ではないのか。

⇒哲学のプラグマティズム的回帰




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ローティーの思想 [メモ]


 メモ。

 認識論・・・反基礎付け主義。

 真理・・・・・反本質主義。

 言語・・・・・反表象主義。 

 あらゆる知的活動には優位劣位がないとする、多元論。

 客観的真理は、人々が「連帯」という形で共有できる信念。

 相対主義。自文化中心主義。





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表象主義 [メモ]


 メモ。ローティーの反表象主義。

 表象主義。

 認識→自然的対象の内的反映。

 近代哲学中心だけではなく、論理実証主義にもまた維持された考え方。

 反表象主義≒「傍観者的知識観」批判 by デューイ

 反表象主義・・・「言語分析の手法」も批判の対象 (表象のみならず言語も同様)






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所与の神話 [メモ]


 メモ。セラーズの所与の神話批判。

 外的な刺激が生のデータとして直接に与えられ、その刺激を自分の思考の形式にあった形に加工して、心の中で表象したり思考したりしている・・・・という考え方。

 このような、認識の正当化を意図した企ては無意味な作業だ・・・by セラーズ。

 さまざまな認識は、それぞれの認識が所属する「理由の空間」という規範的領域においてこそ、その正当化が判定される。

 →その規範のもとで展開される対話的真理の追究重要性

 そこから反表象主義と反権威主義を導き出すだけだったローティーは中途半端ではないか by マクダウェル & ブランダム


※マクダウェル⇒「人間としての経験に即した客観性」という概念の回復

※ブランダム⇒「人間の言語行為の核心=理由を与えたり求めたりする推論的ゲーム」、「主張の言語ゲームにおける重要性」、「言語ゲームにおけるコミットメントとエンタイトルメントの視点の重要性」





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メモ 1980年4月号 [メモ]


 橘川幸夫「ハロー・グッドバイ」連載開始。

 サブタイトル、「すべての人とつながる。すべての空間と時間に到着できる。メディアは不老不死システムだ」




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メモ 1980年4月号 [メモ]


 橘川幸夫「ハロー・グッドバイ」連載開始。

 サブタイトル、「すべての人とつながる。すべての空間と時間に到着できる。メディアは不老不死システムだ」


※1/4追記。

 なぜかタブって掲載しているが、昨年末の出来事ということで勘弁してください。




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メモ 1980年5月号 [メモ]


 橘川幸夫「ハロー・グッドバイ」より。

 作り手が読者のイメージを絞り込んで、まあ、読者の原像みたいなものをつかんで、その人に向かって本を作っていく。このやり方は、渋谷が昔から言っていることだし、渋谷が自分の信条以上に信じていたのは読者の手紙だった。雑誌が、ある時代的人格を持つ。クロワッサンのような人・・・というのが実際いるのかどうか知らないが、まあ、いてもおかしくはない。ROのような人・・・というのもいたのだろう。そうなるとどうなるか。クロワッサンのような人、またはそういうふうになりたい人は買うけど、関係ない人は買わない。読んでみると、クロワッサンのような人には会えるけど、間違いなくその人しかいない。


 ついでに、岩谷宏「『出版人』とは何者か」より。

 主旨。出版社には使命感とかやりたい方向性があるはずだ。それに賛同するかしないかで、リアルな関係が築かれる。ところが今の出版社のシステムはショバ代稼ぎでしかない。書き手はただの消費される商品になっている。




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メモ 1980年6月号 [メモ]


 渋谷陽一「独自の雑誌論理を語る!」より。

 僕の編集方針というか、雑誌作りの論理というのを、どうも誤解している人が多くてウレシイんだな。

 先月号では橘川までがアホなことを言い出して、全くあいつは8年間も俺と一緒に雑誌を作って何を考えているんだ。

(中略)

 つまり、モデル読者を想定してもしかたがないという事。ROはRO的な人に向けて作っているわけでもなければ、世の中にROのような人なんてものも存在した事はないんだ。

(中略)

 僕の雑誌作りのモデル読者が居るとするなら、それは現在の音楽誌に満足していない人で、その人をRO的というならば、それはかまわない。そして既存の音楽誌に満足していないロック・ファンは、すべてのロック・ファンでもあると確信しているから、ROは常にすべてのロック・ファンを対象としているだけ。

 僕達が見なければならないのは既存のメディアの欠落部分なんだヨ。

(中略)

 そしてその空白部分が全部埋まってしまった時、メディアは消滅しちゃうわけ。あるいはすべてがメディアになってしまうという事。



 橘川幸夫 「おめでぃあ」より。

 批評というのは少なくとも現実の「作品」を否定するにしろ肯定するにしても、その作品に方向性を与えるものだ。だから音楽批評が現実の音楽シーンに対して効果があると思えばやれば良いし、無力を感じたらそれこそ自分で(引用者註:音楽を)やれば良い。ロックの歴史なんて、それこそ「音楽そのものによる旧音楽批評」でもあったのだから。





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無限性の構造 [メモ]


 メモ。栗原隆氏の文章より。出典は講談社選書メチエ『知の教科書 ヘーゲル』。

(引用開始)
 (・・・)そこにはカントやフィヒテ哲学は、日常的な認識の確実性を否定したものの、反省は、「有限性に絶対的に対立している無限性」の境位にとどまったため、二元論的な対立構造を招来することになったという見極めがあった。「有限性に絶対的に対立する無限性」としての純粋概念、「反省にとっての無」、そして「対立あるいは有限性を純粋に無化すること」は、絶対的なものの否定的な側面としての無限性だとされる一方で、「二元論ではない否定性、すなわち無限性、無」が想定され、これが「絶対的な純粋肯定態」だと捉え直された。

 ヘーゲルがこのように無限性の構造を構想する背景には、スピノザの『エチカ』第一部・定理八・備考一「有限ということは、実は、ある本性の存在の部分的否定だ。無限ということは、その絶対的肯定だ。」という規定に、有限なものを同時に自己内に含む無限の構造を見出すというスピノザ解釈があった。ただ、スピノザの唯一無限で動かない実体の無限性とは違い、ヘーゲルの理性は動的で、すべてを包含しつつ展開する無限性だった。「理性的なものは、一方が他方の反対となるような有限なもののいずれも、自らのうちに包含する」と考えられていた。こうして『信仰と知』では、制約された有限な認識、それに対立する限りでの無限なもの、さらに、対立しあうものを無化したところに規定される無限なもの、という三重性のうちに、「無限性という思惟の真の性格」の構造が明らかにされ、これはその後の弁証法の構造として確立されることになる。
(引用終わり)

 感想。弁証法にあまり興味はないが、その成り立ちの段階で、スピノザの無限性を以てカントなどの既存の思想を乗り越えていこうというヘーゲルの強い意欲が感じられる。

 なお、この引用文をきっかけとして幾つかの興味深い発見があったのでここに残しておく。





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理念 [メモ]


 メモ。

 理念・・・神の領域。あるいは直観的悟性。主観と客観の同一性。さらには自由。





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現象 [メモ]


 メモ。

 ヘーゲルによれば、カントの悟性は(産出的構成力がなければ)無、とされる。

 ヘーゲルは、(カントの言う)現象そのものも、無とする。




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信と知メモ [メモ]


 ヘーゲル『信と知』メモ。

 「有限者の観念論」批判。

 「二元論」批判。

 「主観的な、主観-客観」批判。

 「多様性」に対する統一(アプリオリ)。

 「現象」批判。→「三一性」としての悟性。

 「超越論的構想力」の肯定。





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アンチ・オイディプス [メモ]


 メモ。

 ドゥルーズとガタリが見落としているのは、最も強力なアンチ・オイディプスはオイディプスそのものだということだ。オイディプス的父親は「父-の-名」として、すなわち象徴的法の審級として君臨しているが、この父親は、「享楽-の-父」という超自我に依拠することによってのみ、必然的にそれ自身強化され、その権威を振舞うことができる。
(ジジェク『斜めから見る』青土社 翻訳P56)




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