So-net無料ブログ作成

疎外論は変だ


 前にも書いたが、疎外論をどう捉えなおすか、というのが最近の個人的テーマだったりする。

 通常の疎外論は、

(1)なんだかわからないが、まず主体がある
(2)何かの影響で主体が居場所から放り出される
(3)なんとか自分を取り戻してメデタシメデタシ

というストーリーによって語られる。

 しかし、そもそも(1)がおかしい。

 しかも(3)だって、必然性が見えない。

 マトモなのは(2)だけじゃないか・・・と言ってもあくまでも(1)が前提で、その前提がおかしいのなら(2)もおかしい。

 というわけで全部変だ。

 疎外論の全部が変だ。

 ・・・というところでオレの思考は終了する。

 お疲れさまでした。





nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

ドゥルーズの走り方


 以下は「ドゥルーズの走り方」と題して10年前に書いた文章。

(引用開始)

 さて、昨今ではドゥルーズは2人いることになっている。1人は独りで佇むドゥルーズ。もう1人はガタリの隣にいるドゥルーズ。

 ドゥルーズによると、あらゆる概念はその先見的な端緒で「差異」を含み、「差異」を含んだまま統一的に運動する。これは比較的多くの哲学者たちが共有している思想だと思われる。特にヘーゲルの弁証法を、もっとラジカルにモダンに言い換えたものと考えてもよいだろう。ただし、フランス現代思想におけるその「言い換え方」にはある特殊な法則があり、それが従来のヘーゲル解釈と大きく異なる。これについては後に書くこともあるだろう。

 アンチ・オイディプスやミルプラトーにおけるドゥルーズはひたすら微分し、「権力」や「概念」から遠く離れ続けることを意図していた。しかし、本来のドゥルーズはもう少し粘り腰である。「意味の論理学」によると、生成(出来事)と(生成されない)肉体は次元を異にする。余談だが、もし肉体が生成に関わるとするならば1つめに考えられるのは性交である。2つめに生成と関わると考えられるのは、主に「傷」(の周縁)であり、あるいは元々所有している「襞」を出生時の傷として現前しているのかもしれない。

 「生成」「出来事」を端緒としたリゾーム的な運動の強調は、各方面にドゥルーズを誤解させてきた。この誤解を解く鍵は「潜在性(潜勢力)」の《以前》を考えることだと思う。実は、それを考えることはすでにドゥルーズではないし、いわゆるポスト構造主義的な思想でもない。したがってこのジジェク的な読み方はまさに文字通り基地外的に過ぎない。ただ、少なくともドゥルーズの「潜在性(潜勢力)」はジジェク的ラカン的ヘーゲル的な「否定」を内包していたはずだ。それをドゥルーズ自身が見出せず(あるいは見出していながらそれを無視し)、ガタリの元へと走ったのだ。

 バディウのようにドゥルーズの多数を<一>として捉えなおすのも一興だろう。しかしながら「意味の論理学」の有効性は、この現代こそ強く重くなっているのではないか。ドゥルーズはただリゾーム的に走っていたのではなく、革新的に確信的に核心的に走っていたのだ。ピンクパンサーとは本来そういう動きをするものではなかったのか(本当の意味でリゾーム的に走っているのはクルーゾーである、という冗談はカッコ内にとどめて置く)。

(引用終了)


 何も分かっていないくせに偉そうに書きやがって・・・というタイプの文章だが、何の問題もない。

 なぜならば、今のオレは当時よりもさらに何も分かっていないからだ。





nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感