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疎外された「疎外」 その4


 疎外と訳される「エントフレムドゥング」と、外化と訳される「エントオイセルング」は、ルカーチ以降のヘーゲル左派では、ほぼ同じ意味で使われている。

 しかし、ヘーゲルを読む限りでは、その二つは微妙に違っている。

 そして、さらに言うならば、それらを「大きな主体(or他者)」の疎外や外化と考えるのはおかしい。

 ヘーゲルは、人間のあるべき思考の形式性・・・論理性・・・として、自己からの疎遠・・・と捉えていた。

 それを勝手に現実の普遍の法則として捉えるのは勝手だが、ヘーゲルはある意味「哲学的理想論」として考えていた。

 つまり、一般には自己意識・・・つまり弁証法的な思考形態・・・を持っていない。

 しかし、ヘーゲルは、哲学者の手法としてそれ(結果として自己疎遠を導くような、弁証法的思考)を持つべきだと考えていた。

 他方で、ヘーゲル左派は「疎外」を、すべての人間が経験する「所与の悪」として捉えていた。

 一般的な普通名詞と考えれば間違いではないけど・・・「疎外」に関するヘーゲル認識のほとんどがここでアウトになる。

 疎外を勝手に悪と捉えたのはヘーゲル左派であり、ヘーゲル自体はそう考えていない。

 にもかかわらず、ヘーゲル左派はそのようにしてヘーゲルを捉え、なおかつ、それを乗り越えるものとしてマルクス的思考を提示した・・・つもりになっていた。






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疎外された「疎外」 その3


 ヘーゲルの Entfremdung という言葉はハイデガー方面では「隔離」と訳されているらしい。

 これもまたある意味、疎外された「疎外」と呼ぶべきか。 

 とにもかくにも、史的唯物論とか疎外論の観点でしか語られないヘーゲル(要するに単なる踏み台)というのは、非常にもったいないと思う。





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