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ヘーゲル その4


 自己意識の続き。

 自己意識は「意識と対象(他者)の一致」を目指すために考えられた、というのが前回の話。

 自己意識はヘーゲルの原理で彼自身は、「自己意識は意識の真理」とさえ言っている。

 そして、その自己意識の単純な形態は欲望だとも言っている。

 この辺りが、ラカンがヘーゲル思想をツマミ食いしていた理由だろう。

 さて、ヘーゲルの自由概念を自己意識を通して語ってみると、「他のもののうちで自己自身の許(もと)にある」となる。

 例えば、法律に従うときに、法律を自分自身のものとして考えているならば、喜んで法律に従うだろう、それが自由だ、という考え方だ。

 もし法律を自分自身のものとして考えないならば、罰則が面倒だから嫌々法律に従う、という考え方になるだろう。

 その法律をまず他者として考え、次に自己意識を通して自分自身のモノと考えられるかどうか。

 この話に納得できるかどうかはともかくとして、「意識と対象(他者)の一致」というのが精神の「運動」として、つまり常にいつでもその「一致」を目指した運動が繰り広げられている・・・これがヘーゲル思想のキモとなる。






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ヘーゲル その3


 次は自己意識だ。

 ヘーゲルがカント思想を取り入れた結果、ヘーゲルの頭の中は「意識と対象の一致」が中心的な思考となった。

 意識と対象を一致させて考えるのが理性というわけだ。

 カント的悟性(理性よりやや劣っている理性のライバル)が、対象のすべてを把握できず、その取りこぼしたものが「物自体」として残っている・・・というような中途半端な発想はヘーゲルにはなかった。

 なぜならば、前回書いたようにヘーゲルはスピノザの無限実体的な発想を想定していたから。 

 で、意識と対象を一致させるために、ヘーゲルは自己意識という概念というか発想を持ち出す。

 ここで注意点はヘーゲルは「私が私を直接意識する」という考えではない、常に対象を通して自分を見る、ということだ。

 まー「私が私を直接見る」という発想の方がオカルト的(あるいはラカンの鏡像段階的)でオモシロいことになるだろうが、こういう話はジジェクが得意で、たとえば『否定的なもののもとへの滞留』(ちくま学芸文庫)などを参照してほしい。

 話を戻すと、非常に簡単に言えば、自己意識は「他者を通して自己を見る」ということだ。

 カントのように自然的対象を「通して」という発想ではなく、ヘーゲルの場合は基本的に人間が相手となる。





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