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精神の暴走


 ヘーゲルの思想を一言で言うなら、「暴走する精神」だ。

 現代の目で見ると・・・という注釈つきだが。

 ただ、こういう精神解釈があってもいい。





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無限性の構造 [メモ]


 メモ。栗原隆氏の文章より。出典は講談社選書メチエ『知の教科書 ヘーゲル』。

(引用開始)
 (・・・)そこにはカントやフィヒテ哲学は、日常的な認識の確実性を否定したものの、反省は、「有限性に絶対的に対立している無限性」の境位にとどまったため、二元論的な対立構造を招来することになったという見極めがあった。「有限性に絶対的に対立する無限性」としての純粋概念、「反省にとっての無」、そして「対立あるいは有限性を純粋に無化すること」は、絶対的なものの否定的な側面としての無限性だとされる一方で、「二元論ではない否定性、すなわち無限性、無」が想定され、これが「絶対的な純粋肯定態」だと捉え直された。

 ヘーゲルがこのように無限性の構造を構想する背景には、スピノザの『エチカ』第一部・定理八・備考一「有限ということは、実は、ある本性の存在の部分的否定だ。無限ということは、その絶対的肯定だ。」という規定に、有限なものを同時に自己内に含む無限の構造を見出すというスピノザ解釈があった。ただ、スピノザの唯一無限で動かない実体の無限性とは違い、ヘーゲルの理性は動的で、すべてを包含しつつ展開する無限性だった。「理性的なものは、一方が他方の反対となるような有限なもののいずれも、自らのうちに包含する」と考えられていた。こうして『信仰と知』では、制約された有限な認識、それに対立する限りでの無限なもの、さらに、対立しあうものを無化したところに規定される無限なもの、という三重性のうちに、「無限性という思惟の真の性格」の構造が明らかにされ、これはその後の弁証法の構造として確立されることになる。
(引用終わり)

 感想。弁証法にあまり興味はないが、その成り立ちの段階で、スピノザの無限性を以てカントなどの既存の思想を乗り越えていこうというヘーゲルの強い意欲が感じられる。

 なお、この引用文をきっかけとして幾つかの興味深い発見があったのでここに残しておく。





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G Love


 久しぶりに G love を聴いた。

 現代のメンフィスってこういう音だ。

 というイメージ。

 最初の数枚しか持ってないけど。





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主体的


 主体は、主体として、主体を、主体的に生きる。

 それが生きるってことだ。





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プロ棋戦


 例の事件以来、プロ棋士の対局に興味がなくなったり、将棋そのものから離れてしまう人がいたりするようだ。

 そういう人たちの気持ちはわかるし、そうなったのは連盟が悪い・・・と言ってしまえば話は終わりなんだが。

 個人的には事件があってもなくても変わらない。

 普通に携帯やPCで棋戦を観るなど、情報を追っている。

 そう考えるのは、きっと一時期プロレスばかり見ていたせいだ。

 てゆーか、WWEのプロレスというのは真偽不明な事件ばかりで、それをまたいろんな角度で「読む」というの訓練をしていたため、今回の事件についてはさほど抵抗はない。

 残念な事件には違いはないが、棋士たちの「世間知らず」は今に始まったことではないし、ここには書けないような棋界の醜聞はそれこそ枚挙に遑がない。

 でもまー棋士ってのは棋譜を残してナンボの人たちなことも確かで、その魂の揺れ動く様を棋譜を通して見たい理解したいというオレの気持ちは昔から変わらない。

 それはコンピューターの棋譜では、仮にまったく同じ手順だとしても感情移入が難しい。






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米国大統領


 政策で一番大きいのは経済政策だ。

 今のところ国内の雇用対策しかやっていないようだが、どこまで保護貿易を推し進めるのか。

 貿易関係の二国間協議の進め方はどうか。

 短期や長期の利子率をどう考えるのか。

 具体的な為替水準をどこにおくのか。

 国内の景気対策としてのバラマキをやるのかどうか。

 経済対策さえうまくいけば、それ以外のことはあまり関係ない。






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東芝 [株式投資]


 東芝を空売りしてしばらく経つが、そろそろ買い戻そうか。

 それとも待つか。

 悩みどころだ。






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エアコン


 エアコンの室外機がうるさい。

 古いとうるさくなる。

 15年経てばそんなものか。





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コペルニクス的転回 その3


 というわけで。

 カント自身が、だんだんと「悟性と感性の共存(これらを取りまとめるのは「構想力」)」から「悟性中心主義」へとシフトチェンジしている関係で、コペルニクス的転回の意味が取り違えられるようになってしまったと考えるのが自然だと思う。





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コペルニクス的転回 その2


 コペルニクスの地動説は単に「太陽中心説」に過ぎないんだが、それでも大変な発見ということになる。

 なぜかというとコペルニクス的転回だから・・・というのはトートロジーになるのだろうか。

 前回の話からすると、トートロジーではないんだが。


 また、プトレマイオスが天動説の代表格となっているが、彼の発想は常識的なもので、地球が中心で太陽その他が地球の周りを回ると考えるのは、単純に自然なことかと思う。

 というか、だからこそコペルニクスの地動説は大きく考え方を変えるような革新だった。


 一方でカントの思想が革新的なのは、「認識があるから対象がある」ということではなく、「時間」と「空間」が客観の側ではなく主観の側にある、と考えたことだと思う。

 そんなの非常識だし。





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コペルニクス的転回 その1


 そういえばメイヤスーがカントのコペルニクス的転回を「おかしい」と言っていたような気がする。

 つまり、コペルニクスが、それまで主流だった天動説に対して地動説を唱えたということは、「主体が中心」という考えから「主体が動いている」という思考革新のことをコペルニクス的転回というはずで、カントの「主体の認識が中心」という考え方はコペルニクスとは違う、むしろ逆(プトレマイオス的反動)だろうというわけだ。

 ごもっとも。

 しかし、カントが実際にどう書いたか知っているだろうか。

(「純粋理性批判」第二版序文 中山元訳 光文社古典新訳文庫P157)
 この状況はコペルニクスの最初の着想と似たところがある。コペルニクスは、すべての天体が観察者を中心として回転すると想定したのでは、天体の運動をうまく説明できないことに気づいた。そこで反対に観察者の方を回転させて、天体を静止させた方が、うまく説明できるのではないかと考えて、天体の運動をそのように説明しようとした。だから形而上学においても、対象の直観について、同じような説明を試みることができる。もしもわたしたちの直観が、対象の性質にしたがって規定されなければならないとしたら、私たちが対象について何かをアプリオリに知りうる理由はまったく理解できなくなる。ところが感覚能力の客体としての対象が、わたしたちの直観能力の性質にしたがって規定されなければならないと考えるならば、わたしたちが対象をアプリオリに知ることができる理由がよくわかる。
(引用終わり)

 つまり、コペルニクスが「天体の見かけの運動が(天体ではなく)観測者に由来している」と言っていることと、カントが「実在対象の見かけの性質が(対象ではなく)認識者の心に由来している」と言っている構図が、よく似ているよね、という話だ。

 アポステリオリなものだけではうまく説明できなくて、別の何かが必要だ、という話の流れでコペルニクスを引き合いに出したというわけ。

 言い換えると、コペルニクス的転回を「天動説→地動説」と考えただけでは、カントの意図を汲み取れない。


 それに加えて・・・。

 要するに「時間」「空間」というカテゴリーが主観的だという話から逆算すると、「主体の認識」には客観性が欠けていて、経験があって初めて客観的な要素が導入され、普遍的かつ必然的な「認識」が可能になる。

 オレが言いたいのは、「対象があるから認識が始まる」に対して「認識したから対象がある」というのがコペルニクス的転回ではない、ということだ。

 大陸的合理論とイギリス経験論を合体させたのがカントだ、という通常的理解は意外と生きていて、なんとなく悟性側が優勢かもしれないけど、悟性と感性が両方ともしっかり働かないと(ものすごーく単純に言うとこの両者の共同的な働きが「超越論的」というヤツ)、真理には近づけないってことだ。

 なので、「対象優先の実在論から認識優先の観念論へ」という単純な図式で「純粋理性批判」の頃のカントを捉えるのは誤解を招きそうだ。

 オレはそういう捉え方にあまり近づかないようにしている。






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いろいろ考える


 「物自体」をいろいろ考える。

 物自体(Ding an sich)の反対は Ding fur uns だ。

 そりゃそうだ。

 つまり、現象(phenomenon)は Ding fur uns を忠実に反映した表象というわけだ。

 ・・・てなことをなんとなく考えたりする。





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ザラ場 [株式投資]


 デイトレーダーではないのでザラ場を見ないようにしている。

 精神衛生上、よくないし。





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仕事の影響


 仕事のことを考えて眼が覚める。

 精神衛生上、よくない。





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ビリビリに破く


 そういえば昔、○×△□という人の書いた現象学の入門書があまりにもひどいのでビリビリに破いたことがある。

 この人の本、今でもいろいろ売っているらしくて、それなりに読者をつかんでいるようだが、たぶんオレと相性が合わないだけだと思う。

 いずれにせよ、絶対に買わない。





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いくつかの対概念


 「純粋理性批判」を理解する前提には、いくつかの対概念を知っておくといい。

 一番有名なのは「経験論」と「合理論」の対で、カントはそれらを乗り越える意味で「超越論」という概念を持ち出したって話。

 あとは「超越的」と「超越論的」の差とか。

 それらをリストアップしながら読むことにしよう。





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入門書に切り替え


 結局光文社古典文庫を買った。

 さっそく読み始めたら、いろいろと過去の挫折を思い出した。

 結論から言うと、カントの場合は思考の時代的背景、当時の常識がイマイチ不明の上に、当時としても独特な思考でかつ相当な悪文(らしい)・・・・なので、読書ガイドラインとしての入門書が必要だ。

 てゆーか、「純粋理性批判」はそれくらい認識の基本的なあれやこれやを深堀りしながら幅広く扱っているので、勝手に解釈しながらの上っ面な読解では、本来の理解から大きく逸脱したものになりそうだ。

 というわけで、黒崎政男著『カント「純粋理性批判」入門』 (講談社選書メチエ)を購入し読み始める。

 黒崎本は読みやすいと評判で、それが却って個人的にはネックだったが、知的理解力が老人化しているため、この程度でちょうど良かった。

 もちろん、志向の違いが出てきたときは別の解説書(ちくま新書等)が必要になる気もするが、しばらくはこれで読み進めよう。

 黒崎本に欠けているのはもちろんメイヤスーやガブリエルとの関係だったりするんだが、それはオレが勝手に脳内で補完すればいいだけだ。

 頑張ろう。






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カントを読む予定


 純粋理性批判を読む予定。

 といっても全部を読む気はないので、悪訳と評判の岩波文庫(篠田訳)でいいかなという気もしている。

 岩波文庫の「純粋~」は何度か買ったり捨てたりを繰り返している。

 今までは読もうとして挫折というか、内容にあまり興味がないというか。

 だったら今さら買ってどうするんだという感じなんだが、今回はカントの背景や哲学史的な位置付け、現代からの距離とかが見えてきたので、最初の方をチラチラと確認したい程度。

 それ以外の訳では平凡社ライブラリーの原佑訳は全集の訳で、随分改良されたらしい。

 光文社古典文庫の中川訳は解説を含めて分かりやすいとの評判だ。

 個人的には分かりにくいくらいでちょうどいいんだが、さすがにカントとなると分かりやすい方がいいかも。

 熊野訳にも食指が動くが、これは高価で、たぶん研究者にはおススメ。

 以文社の宇都宮訳も格調高いが、やはり高価。

 また、筑摩の石川文康訳を立ち読みしたが、これは読みやすい。


 とまあ、いろいろ見ているわけだが、中古で高峯訳を買ったりしているかもしれない。

 選択肢が多いと、オレの魂は遊んでしまう。






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構造と力


 久しぶりに浅田彰『構造と力』の序文を読んだ。

 時代ですな。

 いや、なんつーか。

 もちろん浅田先生は簡明なロジックを提供する目的で極端に書いているから、あの文章を真に受けてはいけないんだが、真に受けた人が、オレを含めたくさんいるのだろう。

 要するにオレが言いたいのは、大人になったら子供のままでいいわけないじゃん、という意味。

 そんなの当たり前だ。

 この本による極論は子供のままで遊びましょう、的なイメージになっているんだが、その実は、スマートなオトナ、既存とは違う新しいタイプのオトナを目指して生きましょう、ということであり、決してバカな子供のままでいいとは言ってない。

 しかし、こういう誤解はよくある話で、どうということはない。




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しろかわを買い直し


 年末年始の帰省移動中に、岩崎守男作の詰将棋作品集『しろかわ』を紛失した。

 たぶん飛行機内に置いてきたと思う。

 仕方がないので買い直し。

 売り上げに貢献したということで、きっと問題なし。





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メディア論


 橘川幸夫の語るメディア論なら理解できるが、マスメディアに対する個人的な思考優先順位は低い。

 極めて「政治的」だから。

 しかし世の中の人は政治が好きな人が多いので、マスメディアに対する意見も多い。

 で、例えば両論併記を否定的に捉えたりすることについて、自己弁護というか、子供の論理だなあという感想を持つ。

 政治的なら、せめて形式だけでも中立を目指す努力をするべきだろう。

 「プロテストパラサイト」という言葉の意味を考えた方がいい、ということをここに書くことさえ鬱陶しい。





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両論併記と「ズバリ正論」


 両論併記をしなかったら、その多くは教条主義だ。

 正しいことをズバリと書くには知性が必要だ。

 そしてそのような知性の持ち主は少ない。

 てゆーか、そういう知性はマスメディアを必要としない。

 ということは、「庶民にはマスメディアが必要」で、だからマスメディアを「利用」して世論誘導に使うことが可能になる。

 人気のあるキャスターや論客がズバリと世論誘導することの危険性を考えてしまう。

 もちろん両論併記は中立ではない。

 そもそもメディアに厳密な意味で中立性はない。

 しかし、適切な両論併記さえできない者に、正しいことをズバリと書くことを求めるのは、もっと難しいのではないか。

 なので、正直に書けば、両論併記だとかズバリだとかはどうでもいい。

 メディアに求められているのは時代に見合ったバランス感覚だ。









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携帯電話のショップ


 そういうわけで某所の某ソフトバンクのショップに行ったわけだが、契約しに行く人だけならどうということもないが、いろんな人がいろんなトラブルを抱えてやってくるので、お店の人は大変だと思う。




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スマホが入院


 スマホが一週間ほど入院した。

 simカードが入らなくなったため。

 あとで聞いた話によると、テープで止めて固定すれば認識するらしい。

 まーそんなことをして別の箇所が故障したらどうするのか。

 というわけで、たぶん機種によっては、よくある話なのだろう。

 無事に無料で・・・そういえば有償なのに0円となっていたが・・・退院した。





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ライブチケット その2


 スティングが来日するというのでチケットを買おうと思ったらS席で1枚13,000円だ。

 家族会議の結果、それでも行こうということになり、入手した。

 誰が行くんだよ、という気がすれるけれど、ファンの世代を考えれば高くても買えるということか。





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ライブチケット その1


 エレファントカシマシがツアーをやるというので、北とぴあのチケットを申し込んだが外れた。

 会場が狭いので外れるだろうと思っていた。

 あとはなんちゃら先行発売とかあったようだが、諦めた。

 メンドクサイし、ファンクラブで取れないのなら、行かなければいい。

 チケットに執着すると高額チケット販売を認めることにつながる。

 運よく行けた人が幸せになればいい。

 あと、今回は地方のチケットを取ったというのもある。





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物自体 その4


 カントの純粋理性と実践理性の立法の自由。

 これ、「法」という言葉が共通だけど、中身が全然違う。

 同じ法として扱ってよいものか、個人的には悩みどころだ。

 



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物自体 その3


 カントの物自体の代表格は、立法の自由だ。

 つまり純粋理性批判における、自然法則。

 実戦理性批判における、自ら律するべき法律。

 逆に言うと実践理性の「立法の自由」がなければ、存在論的な自己へと戻れない。

 つまり、フェノーメナルなものとヌーメナルなものの橋渡しをしているのが、カント的自由だ。






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物自体 その2


 カント以降の、いわゆるドイツ観念論はヌーメナルなものの中にフェノーメナルなものを位置付けた。

 それは存在論的というより独我論と呼ぶにふさわしい勝手な話なんたが、それがまたドイツ観念論の魅力で、かつ唯一の拠り所だ。

 つまりは物自体の中に思考がある。

 言い換えると、私の中にヌーメナルなものがある、ゆえに私は思考する。





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物自体 その1


 カントの物自体をどう考えるか。

 結構メンドクサイ。

 なぜなら、存在論的に捉えてしまうとワケワカメだから。

 フェノーメナル(現象的)なものとヌーメナル(叡知的)なものを並置して、さあどちらがどう存在しているのか、などと考え始めると、カントのにように中途半端になってしまう。

 中途半端・・・つまりヘーゲルとともに語られると同時にヴィトゲンシュタインとともに語られてしまう。


 あ、一応書いておくけどカントの著作の中での「物自体」は、ほぼ「ヌーメノン」と同じってことです。




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